ブラックバス移植のルーツ「赤星遺稿」から読み解く歴史



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今では、多くの釣り人が人生の楽しみにしているバスフィッシング。

日本では、誰もが認めるゲームフィッシングの王様だと思います。

そんなブラックバスが日本に来た歴史について記載していこうと思います。

 

ブラックバスを釣る人なら、ぜひ、最後まで読んでもらえると幸いです。

 

ブラックバスを日本に持ち込んだ男「赤星鉄馬」氏とは

 

 

「赤星鉄馬」の画像検索結果

赤星鉄馬氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%98%9F%E9%89%84%E9%A6%AC

 

それでは、初めてブラックバスを日本に持ち込んだ赤星氏とは一体どんな人物なのか、その人生を紹介していきます。

◯明治16年1月11日、赤星弥之助の長男として東京に生まれる。

◯父の弥之助は、明治新政府の御用達となり、富豪となる。

◯明治34年東京中学校を卒業。

◯18歳にして、アメリカに渡る。

◯アメリカでロレンスビル高等学校、ペンシルバニア大学を卒業。

◯明治43年27歳で結婚する。

◯結婚を機に、東京に移住する。

◯移住後、成歓牧場を作って経営する。

◯芦ノ湖にブラックバスを移植した当時、大正銀行の頭取の職につく。

◯第二次世界大戦時に神奈川県大磯に疎開。

◯昭和26年11月9月、大磯の自宅で病気により死亡。享年68歳。

趣味は釣りと馬の研究だったそうです。

 

赤星遺稿に残された当時の叫び

 

「私はこのブラックバスこそ自分の要求する諸条件に当てはまった、一番理想に近い魚だという結論に到達した。言いかえるとブラックバスこそ次の時代の魚である。われわれが「釣りどく」として散々釣り荒らした、または他の理由によって魚族の激減した日本の河川湖沼に、その代償としておくべき、まことに価値あるという確信を得たのである。〜略〜」

引用元:赤星遺稿

 

赤星哲馬氏が残した赤星遺稿の内容から抜粋した文章です。

当時の日本の水域に関する危機感を募らせていたことが伺えます。

要は、ブラックバスが日本にくる前から、日本の川や湖沼の生態系は崩れつつあることを研究で知っていたのだと思います。

 

当時は川や湖沼を汚し放題だったと言います。

例えば、薬品汚水が放出される川、染色工場や発電所のダム、コンクリートで固められる川などがあったと言います。

この水質汚染は日本古来の魚種に大打撃を与えた要因に違いありません。

 

当時は工業時代。

 

多くの工業地帯が各地に作られ、経済が発展していく最中だったと思います。

 

釣り荒らした釣り人のことと、当時のそう言ったことをまとめて「釣りどく」と表現しているのかもしれません。

古い言葉ですので、真意はわかりませんが、おそらく環境問題に対する言葉だと思います。

 

なぜ、芦ノ湖に放流されたのか?

 

「最初の私の計画は山中湖に入れることにあったのだが、当時、私が朝鮮に滞在していた関係や帝大(当時の東京大学)の学術研究魚として米国政府の許可を得てあることなどのため、全ての処置を帝大(当時の東京大学)に委嘱した」

引用元:赤星遺稿

 

芦ノ湖は当時、当時の東京大学の淡水魚実験所が芦ノ湖にあったことが第一の理由とされています。

また、当時鱒の養殖に失敗した芦ノ湖で、鱒の養殖は適当ではないと結論付けられていたとされます。

 

そして、他の水域と絶縁されていたため、ブラックバスがどれだけ繁殖しても試験的放流には十分であるとされていたようです。

他にも緻密な計画と周到な用意がされていたそうです。

つまり、最初の放流は当時の東京大学の実験的な放流としてスタートしたのです。

 

文面には米国政府の許可とあります。

昔、僕が書いたバスゲリラ放流の犯人についての記事を読んでいた方ならその意味がわかるでしょう。

(現在は諸事情により削除)

 

赤星哲馬氏がブラックバスを日本に持ち込んだ理由

 

「私自身としては、その主要な目的は、食べてもうまい、釣っておもしろい魚を多くの釣魚家と共に長く楽しみたいということにあるが、同時に、これが水産方面はもとより副業的にみても必ず利益がある。やがてはそれが多少とも国家に貢献し、裨益(ひえき)することだという信念と自負があればこそ、相当な費用も投じ、苦心して承知したのである。〜中略〜 当時の山中湖畔の村人の生計の道は荷馬車の運送、冬期は炭焼きなどであった。」

引用元:赤星遺稿

 

この文章を見る限り、世界中を研究のために歩いていた赤星哲馬氏がブラックバスにどれだけ、のめり込んだのかが伝わって来ます。

また、国家のために動いていたという話もしており、魚を通して当時の日本の状況を少しでも好転させようとした信念も感じられます。

 

決して、趣味目的や遊び目的のためにブラックバスを日本に持ち込んだ訳ではない理由が最後の文にあります。

当時最初に放流予定だった山中湖に住む人々を気遣う記載が証拠です。

 

最後に放流された最初のブラックバスは正確な数は、各資料の数字がバラバラのため不明ですが、90匹前後と考えられます。

日本のルアーフィッシングはこの最初の約90匹のブラックバスにより、始まったのです。

(大正14年「1925年」6月22日に日本の芦ノ湖に初めてブラックバスが放流されました)

 

芦ノ湖の変化とスモールマウスバスが芦ノ湖へ放流される

 

芦ノ湖に放流、赤星氏の死去後も、様々な場所へ移植の実験が行われました。

長崎県白雲の池、群馬県田代湖、兵庫県峯山貯水池、京都、宮崎県持田池。

 

当時は水温をキープする技術もなく、道路も舗装されていなく、さらに戦争中であったとされ、食料不足など、かなり移植には難儀したものと思われます。

それでも、赤星哲馬氏の信念の元、意思をついだ人たちによりバスが移植されていったのです。

 

そして、昭和35年から40年ごろ、芦ノ湖の近くの相模湖(津久井湖)にバスが移植されたとのことです。

実は、全国に展開したのが、相模湖や津久井湖よりも先だったとは初めて知りました。

当時の古い書類にはそう記載されています。

 

そして、昭和47年には芦ノ湖のブラックバスが様々な要因で減ってきている問題があったと言います。

そこで、輸入依頼をかけ、アメリカペンシルベニア州産のラージマウスバスの稚魚を千匹放流したと言います。

 

その中で、ひときわ元気で他の魚と見た目も違う個体が混じっていたそうです。

実はその個体こそが、スモールマウスバスであったと。

そのため、当時の話ではスモールマウスバスが少数ながら、芦ノ湖に放流されていた可能性も否定できません。

 

1990年代に芦ノ湖でスモールマウスバスが発見されましたが、実はそれは誰かが放流した個体ではなく、何世代も細々と生きて来たスモールマウスバスだったのかもしれません。

 

ワカサギとブラックバスの関係

 

当時の実験では、ブラックバスの胃の内容物を徹底的に調べるということが頻繁にされていました。

その中で、興味深いデータを紹介します。

 

なんと、ワカサギレイクと呼ばれるワカサギが増えすぎているフィールドを除き、バスの胃の中の内容物は、半分以上が魚で、その中でワカサギ以外の魚が食べられていることが多かったそうです。

例えば、オイカワやウグイ、カワムツ、ヘラブナなどの魚の方が積極的に捕食され、胃の中の内容物70パーセント中、ワカサギは1パーセント前後であるというから驚きです。

 

理由として、ブラックバスは物陰に隠れる性質があるため、中層を泳ぎ回っているワカサギを捕食しにくいとの見解がありました。

ワカサギレイクの場合、数が増えすぎてブラックバスのテリトリーに入るくらいの数になると積極的に捕食しだすとの研究結果がありました。

それでも、胃の内容物は30パーセント前後だったと言います。

 

ワカサギ嫌いなんですかね?笑

 

何が言いたいかというと、ブラックバスがワカサギを食害しているという話は嘘だということです。

生活圏が違うため、積極的に食べにいくわけではないそうですね。

 

むしろ、ニジマスやブラウントラウトがワカサギを大量に捕食していたそうです。

 

戦後の害魚論から現在へ

 

その後、害魚論で騒がれるブラックバスですが、日本の釣りシーンを大きく変化させました。

ブラックバスのおかげで、アメリカから入ってきたプラグやワームという文化は、今の日本のルアーフィッシングの原型となりました。

 

それを知ってもらうためにも、過去の偉人たちが作り上げてきた当時の歴史を簡単に紹介させて頂きました。

 

まだ、資料の全てを読んではいないので、ここで終了しますが、また続きがあれば記事にします。

 

最後までご覧頂きありがとうございます。

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