近年、凄まじい勢いでスマホでのコンテンツが増えてきました。
動画やゲームのみならず、様々な需要を満たしたアプリやSNS。
これらは今後も増え続けるでしょうし、人々の生活の中心にさえもなっています。
生まれた時からネットが存在している世代(Z世代)なんかは、これらにかなり順応しています。
と思いきや、東京の電車内では年齢問わず、多くの人がスマホに夢中になり、その白く光る画面に釘付けです。
人と言うのは意外と順応していくものなんですね。
今起きていることを一言で言えば、一見リアルの世界に住んでいるようで、「バーチャルの世界に生きている人が多い」ということ。
映画のようなバーチャル空間にいるという訳ではなく、日常のほとんどがネット中心になり過ぎているということ。
盛り盛りのSNSからわかること
昨今の若者の傾向として、SNSでフォロワー数を増やしたり、注目されることを目的としている人が多いそうです。
SNSではその特性上、自分を盛って盛って盛りまくっていくことだって簡単に出来る。
「インスタ映え」なんて言葉が示すのは、バーチャルなネットの世界の自分を盛りに盛っている人が多いということに他ならないと感じます。
それは最近のトレンドだし、こんな簡単に自分をアピールできる手段を使わない手はない。
僕も盛った写真を使っていたりいなかったり・・・笑
でも、そういう時代だからこそ、誰にも知らせずに楽しむ自分だけの時間を作ったって良いんじゃあないかと思います。
一見、無駄に思えるような行動が後になって大事な時間だったと気がつくことだってありますしね。
SNSによって、短い文字しか読めない人、書けない人が急増している現在。
(おそらくこの記事も最後まで読む人の方が少ないはずです。)
文章を書くという行為は考えることであり、短い文章しか書かないもしくは書けない現代人は思考力や考える力も低下しているのかもしれません。
サイト運営側として、年々感じていること。
それは、「ネットの文章は一文が短くなる傾向にあること」
それに、昔の本のように何回も読まなくては理解できないという難しい表現や文章はほぼ皆無になっています。
そうなると、文章を読み、想像したり、考えたりする時間が少なくなってしまうのでは?と思います。
考える力を失っている現代人
検索という便利なものがありますね。
「ググれ」という言葉にあるように、現代社会はわからないことがあれば一瞬でたどり着くことができる素晴らしい仕組みを手に入れました。
料理の仕方がわからなければ、YouTubeやブログでその答えを知れば良い。
キャンプ道具で何を揃えて良いかわからなければ、キャンプ専門サイトにアクセスすれば良い。
このように、わからないことを一瞬で手に入れる環境にあるのが現代人です。
ところが、こうした答えばかりを求めてきた人達は「考える」ということが出来なくなっています。
ただでさえ、日本の学校教育は考えない子供を増やす傾向が世界に比べて強い!
様々な解釈や感性があっても良い「国語」でさえも明確に答えが用意されています。
算数、国語、理科、社会、英語、どれをとっても答えのみが用意されている。
これでは、自分で考える習慣はつかないし「世の中には答えがある」と思い込んでしまう子供がどんどん増えていく。
結果的にネットに書かれてある正論や正しいと言われていることに益々依存して、自分自身の考えで行動出来なくなっていくのではないか?とも思えるのです。
「最近の若い人は積極性がない」などという意見もありますが、積極性がないのではなく考えることが出来なくなっているのが原因の1つではないかと思えてなりません。(個人的な意見です)
なんとなく生きている若い人が多いのも、「こうした考える力を失ってしまったのではないか?」とも思っています。
近代の日本は徹底したサラリーマン教育をし、トップダウンや忠実に仕事をする精神を養っていた文化があります。
しかし、時代が変化している昨今、これまでの親世代の考え方から脱却する時期にきていると感じています。
「働き方改革」という言葉はその最たる象徴だと感じています。
自分自身で課題を見つけ考える能力が本当にどんな分野でも試される時代とも言えますね。
「考えない」というのは一見、何も悩みのないような人と感じるかも知れませんが、実は一番人の心を傷つけ、不自由であるのです。
現代、若者が感じているやる気の低下、謎の虚無感や苦しみの本質は「考えること」が出来ないという部分に隠されているような気がしてなりません。
だからこそ、子供がいる家庭では子供に考えて行動させる習慣をつけなくてはいけないのではないでしょうか。
テレビなど受け身のコンテンツだけを中心に見るのも良くないかもしれませんね。
なかなか重い話になってしまいましたが、このサイトは釣りがテーマなので、釣りの話をします(笑)
釣りは一見ボーとしている遊びのように見えますが、ちゃんと考える訓練が出来るんです。
今でも覚えている話で・・・
僕が小学生の頃、仕掛けが買えず手元に200円しかない時がありました。
その時に、50円で3セット入っている格安の仕掛けをわざわざ自転車で30分かけて買いに行き、その後別の釣具屋でオモリを購入して、格安の仕掛けの針だけを切り、自分で自作した仕掛けを持って釣りに出かけたりしました。
お金がないから考えて工夫するしかなかったわけです。
そういう経験も釣りをしていたからこそ、自然と遊んでいたからこそ、出来たんです。
大学生の頃だって、小さい頃から自然に触れ、魚釣りを楽しんでいた東北の仲間はみんな考える力があった。
自分でロッドのグリップを削って人差し指置きを作ってみたり、低予算でオリジナルの仕掛けを作ったり、虫網を改造して魚とり用にしたり、釣りをしながらも考えがあり、工夫がありましたね。
これらは一例に過ぎませんが、小さい頃から釣りという趣味を通して身についたものだと思いましたし、自然と遊ぶ趣味というのは同時に考える力も育ててくれると深く感心した記憶があります。
日本という国ではどうしても他人の顔色を伺いながら生活する文化的なものがあります。
しかし、それは時に独創的で自由な感覚を失わせることに繋がりかねません。
特に子供の頃。
釣りは自然相手であり、人の顔色を伺う必要がなく、それが将来の「自由で独創性のある考え方」に繋がるような気がしています。
この下地は将来の自分を支える基礎となると思います。
今だからこそ、釣りの価値が高い
僕らの世代(20代後半)はケータイ電話を学校で持ち始めた最初の世代だと思います。
中学生の頃にはみんなケータイ電話でメールをしていました。
そして、世代的にはミクシィやモバゲーなどのSNSの原型的な存在を楽しんでいましたし、簡単にネットにアクセス出来たおかげで世の中の人達と無限に繋がっていけるような錯覚さえ起こしていました。
でも、実際に人と会うこと、SNSで相手のことを知ることとでは天地の差ほど違いがあるとわかってきました。
全員が全員ではないですが、ネット上で気に入られている人でもリアルで話すと、やっぱり印象が違います。
これは経験上ハッキリ言えること・・・
だからこそ、ネットでの存在がバーチャルのものに感じられるのです。
あくまでネット上での存在。
そのことに気がつくのに、10年以上かかりました。
やっぱりネットと現実は繋がっているとは言え、本質的にはリンクしていないし、何か違う。
それと同じで、自然に直接触れるのと、動画やゲームで自然を知るのとでは違うと思います。
実際の自然は色々なことを教えてくれますよね。
釣れる日、全く釣れない日、自然の理不尽さ、天候不順で釣りができない日、自分の好みを取捨選択するバーチャルの世界と違い、人間として大事なことを教えてくれる気がします。
自然なくして本当の意味での人間性は育たないと僕は強く思っています。
自然と共に小さな積み重ねと経験を通して人は成長していくものです。
そして、自然の中で遊ぶのは考える習慣がつき、多角的な視点が身につくと思っています。
家の中で好きなゲームをしている人を別に悪いとは思いませんが、たまには理不尽な自然を相手に遊んでみるのもいかがですか?
子供に思いっきり自然の中で遊ばせ、学ばせてみてはどうですか?
釣りという自然の遊び、別に釣りでなくて良いですが、自然の中で遊ぶということを現代人は今一度見直してみる時期がきているのではないでしょうか?
戦前の日本の教育は現在と違い、「自然と共にいかにして生きるか」と考える教育を中心としていたようです。
本当に考えさせられますね。
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